忌わしき現実から、楽市が勇ましく逃避する日々を、綴る。
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 まえがき。 

 26P分と少々長いです。
 この長さで完結至らせた作品は恐らく初めてです。
 荒いかも知れませんが、わりと一生懸命作りました。今後の執筆活動にも大きな前進となったと思っています。作品の良し悪しは別として。



遠い昔、そこには、神様だけが在りました。
 空も陸も、光も闇も、なにもが存在しない無の中に在る神様は、まもなく退屈を覚え始めます。
 神様はその退屈に耐えられず、その無の中に、広大な宇宙を創造しました。
 次に幾つもの星と、そこに自らに似せた存在、人間を創造しました。
 人間はその強欲さで、目まぐるしく知能を向上させてゆきました。
 自らの欲を満たすため、邪魔な対象を殺めると殺めるほどに、人間は賢くなり、また文明が発達するのでした。
 いつしか人間は自らが世界の支配者であると確信していたのでした。
 世界は自分たちのためにあると、彼らは確信していたのでした。
 満たされることを知らない人間たちの殺生は延々と繰り返され、いずれ人間たちは皆、死んでいなくなってしまったのでした。
 かつて自分たちのために存在すると確信された世界に、人間の姿は、もうありません。
 しかし、どうしたことでしょう。
 人間の姿が消えて失せても、今日も世界はそこにあるのです。
 無限に広がる宇宙の、無限に続く時間の、一時にしか過ぎない人間が潰え、しかし世界には微塵の影響もなかったのでした。
 一切の変化なく、今日も宇宙には星々が輝き、地球では日が沈み、また登るのでした。
 そう。世界は決して人間のために存在するわけではなかったのです。
 とある世界と言う空間にただ、人間が在っただけのことなのでした。
 神様は欠伸をして、また今日も、自らが創造した世界に目を向けます。
 気の遠くなるような時間を経て、そこにはまた支配者は名乗る存在が、我が物顔で殺生を繰り返し、稀に殺生のない平和のときが訪れても、やはりいつか滅びるのでした。
 その滑稽な光景は、永遠と繰り返されました。
 神様は程なくして、その光景も見飽きてしまい、とうとう退屈がまた再来したのでした。
 そして神様は、気づきます。
 永久に続くこの退屈を逃れる術が、一つあるではないかと。
 世界を、終えれば良いのだと、神様は気づくのです。


 そして、神様は自らの首を刎ね、世界は永久の沈黙を得るのでした。




 ミカは朗読を終えると絵本を閉じ、満足気ににこりと笑って、俺を見据えた。
「はい、拍手」
「・・・・・・随分と古い絵本だな」と俺は拍手の代わりに溜息をついて、そう言った。
 一月終わりの風は冷たくて、俺達の肌を度々凍えさせた。ミカは、その絵本を両手で抱え身を丸くし、さっむぅと呻った。雪のように白い脚の覗くスカートが揺れた。こんなに冷える時期にもスカートを強要させる学校に、俺は密かに敬意を表している。
そんな学校での生活も学年末、放課後の屋上は、酷く冷えた。
「で、お前はあれか。その絵本を朗読するために、俺をこんなところに呼んだのか」
 と俺は欠伸をした。昨夜は日が出始めるまで、ミカの電話相手をしていたのだ。これでは恋人同士と勘違いされても仕方がないと、俺は俺達の関係を勝手に確信している同級生達を思った。
「うーん、まぁ、それもあるかな」とミカは応えた。
「俺はてっきり、襲われるのかと思って脅えていたよ」と俺は言った。
 ミカは笑って、腰ほどまでの高さしかない柵に腰をかけた。
 普段なら、むっと頬を膨らませ、俺を罵倒するところだと思うのだが、どうも今日のミカは様子がおかしいと思った。思えば、突然深夜に、俺に電話をかけてきたあのときから、ミカの様子はおかしい。
 ミカの腰かける鉄製の柵は、ぎしりと危うい音をたてた。その後ろの眼下は学校の駐車場になっていて、四階分下降にある。なぜ学校の屋上にある柵が、こんなにも危険な長さしか持たないのか俺は疑問に思った。だが、そもそも屋上は立ち入り禁止で、危険を考慮する必要が学校側にはないことに、まもなく気づいた。しかしこれでは、ひとつ足を滑らせば、ミカは死んでしまう。
「落ちるぞ」と俺は言った。
「そうだね」とミカは笑った。
「でも私がここから落ちたとして、それであなたが悲しんでくれたとして、だから、どうしたんだろうね」とミカは相変わらず、笑みを絶やさない。俺はなにも言わなかった。ミカが次の言葉を紡ぐのを待った。
「この絵本ね、私がまだ小学校にも上がる前の頃に、毎晩お父さんが読んでくれていたのね」
 ミカは幼少期に想いを馳せているのか、雲のない青空を仰いで、両足をぶらぶらと揺らしていた。今、少し背に体重をかければ、ミカは数十メートル下のアスファルトの駐車場に転落することになる。
「洒落た親父だな」と俺は内心ひやひやしながらも、笑ってみせた。「五歳かそこらのガキに読ませる内容かね」
「ううん」と自虐的な笑みを浮かべて、ミカは首を振った。
「この絵本に対象年齢なんてないと思うよ。すべての生き物に通ずるお話」とミカは言った。俺は、どうも先刻から様子のおかしいミカの真意を挙動から探ろうと、ミカを見据える。
 セーラーの似合う華奢な身体に、雪のように白くて健康的な肌、人形のように整った鼻筋に、それこそ市松人形を思わせる古風な黒髪、透き通るような大きな瞳。
 なんの問題もない、いつもの美少女がそこにはいた。
「自殺願望でもあるのか、お前は」と少しして俺は言った。
「んー」とミカは少し考える素振りをする。
「私はね、普通校に通う、十七歳の、わりと平凡な女子よね。お父さんは昔に死んじゃったけど、まぁよくある話だし、お金にだって困ってないしさ。知ってるでしょ? お母さんはちょっと抜けてるとこあるけど、優しくて、良い母親に育てて貰っていると思っている。一緒にいるとちょっと疲れるけど、友達にも仲良くして貰っていると思う。君という素敵な友人にも恵まれているし、他の男子にも大切にされているし、選択肢豊富な玉の輿のレールもすでに用意されたも同然だよね」
 とミカは少し悪戯に微笑んだ。俺は鼻で笑ってみせた。
「それに、ほら。成績だってさ、君よりは悪くない」
「余計なお世話だよ」と俺は言った。学年トップのどの口が、君よりは悪くない、などと謙遜したことをほざく。あははとミカは笑った。
「で、こんな私の半生だけど、私が自殺を望む要素って、高橋くんにはみえる?」
「見る限りじゃ、ないね」と俺は言って、ポケットから煙草を取り出した。どうも今日のミカといると落ち着かない。俺は一服して、心を落ち着かせる必要があった。ところが胸ポケットに入れていたはずのライターが、どこにも見当たらない。
「そうだよね」とミカのポケットから見覚えのあるジッポが姿をみせた。「でもね」とミカは悪戯そうに笑って、それを指先で弄ぶ。体育の授業の際に、制服を更衣室に置いていたことを、俺は思い出した。こういった悪戯は、普段のミカらしい。
「クラスの女の子とお喋りするのも、勉強して成績あげるのも、こうして高橋くんの禁煙を応援するのも、すごく楽しいんだけど、でもね。死ぬことも辛いとは思えないし、怖くもないわけね、私は。分かる?」
「あー、なんとなく」と俺は言って、使用方法を失った煙草を再び尻ポケットに戻した。ミカは、さすが高橋くん、と笑った。
「でね、私、母子家庭でしょう」とミカは続けた。
 以前、宿題を写させて貰うためにミカの家へ訪れてからも、ゲームや漫画の貸し借りを目的に、幾度か足を運んでいる。室内の家具や雰囲気から、父親がいないことはなんとなく分かっていた。
「生前のお父さんはね、会社は順調、人間関係も良好、誰からも親しまれるような、良い人だったみたいなの。もちろん、家庭も円満ね。幸福を絵に描いたみたいな家族、とは言わないけど、わりと笑いの絶えないさ、愉快な家庭だったと思う。私は、お父さんやお母さんが、泣いたり怒ったりする姿をみた記憶がないもの」
「うちの親はどちらも、泣くことと怒ることしか知らないよ」と俺は言った。
 ミカは笑った。そこで俺は、やっと彼女の違和感が何処にあるのか気づいたのだった。
ミカのその笑顔は、普段彼女が周囲の友人たちにみせる仮面のような笑みそのものだったのだ。それは、俺の前では決してみせない笑顔だ。
 なぜこいつは、俺の前で自分を殺しているのだ。
 ミカが他人の前に、笑顔でいるわけ。それは自然を装うためだ。なにも珍しいことではない、女なら大抵が覚える社交辞令。でも、なぜミカは、俺の前で自然を装う必要があるのだ。
「お父さんが自殺したとき、お母さんは、酷く戸惑って、悲しんでいたよ」
「あの母親だと尚更な」俺は人懐こくて美人な、ミカの母親を思い出した。ミカの親父の自殺について、触れる気はしなかった。ミカは、しかし今から俺に、彼女にとって極めてデリケートな話をしようとしているらしかった。だから、その笑顔か。
 俺は少し、ほんの少しばかり傷心した。俺の前で平常を装わなくたって、いいじゃないか。
「そりゃ私だって、お父さんともう会えないと思うと悲しかったし、涙も流れたよ」としかし、ミカの瞳に、刹那、確固たる懺悔の念を俺はみた。
 なんだ、その瞳は。
「でもね。戸惑いはなかったのよね」
 先程よりも幾分か冷たい風が流れて、ミカの腰まで伸びた黒髪を揺らした。けれど、ミカは身を丸くすることも、呻ることもなかった。
「それは、お前がまだ子供だったからだよ。俺もガキの頃に、お袋と見知らぬ男が寝ているところをよくみたが、戸惑った覚えがないね」と俺は言った。
 若くして俺を生んだ両親は、どちらも未完成の人間だ。常識もなければ、常識を意識しようともしない。飯は食わせて貰っているし、親父だって家に金をいれているし、悪くされた覚えはないが、つまり、俺は遠足にコンビニ弁当しか持参したことがない、といった具合だ。一人息子の俺に対しても、よく言えば放任主義の体勢をとっている。
 ミカは微笑んだ。
「ありがと。でも違うよ、別れは、むしろ幼いからこそ強く心に残るものだもん。私は当時六歳で、子供なのに、戸惑えなかったの」とミカは続けた。
「で、昨日が父さんの命日でさ、父さんの荷物とか整理していて、埃被って出てきたのがこれ」とミカは年季のみえるその絵本を、俺のライターと一緒に手中で弄ぶ。そして、笑顔を絶やさない。みているだけで、こちらまで疲労する笑顔だった。
「毎日同じ光景と行動の繰り返しでしょう、人間って。朝起きて、会社行って、帰宅して、家族と食卓囲んで、眠って、また起きて、でさ。リピートは退屈を生むのね」
 ミカは柵の上にすべての体重を預けて、浮いた両足をぶらぶらと揺らしながら、目を通すわけでもなく絵本をぱらぱらと捲る。
「お父さんは世界に飽きたんだよ。だから、世界に属するのをやめたわけ」
 なんとも飛躍した話だと、人は思うかも知れない。
 しかし、俺にはその動機が不思議と理解出来たし、共感すら抱いていた。
 退屈だから、死ぬ。
 生が辛いのではなく、生に飽きたのだ。
 実にシンプルで、また自ら命を落とすのには十分な理由なのかも知れなかった。
 世の中に、最期まで生を望み死んでいった人々が無数といるという事実は、余命ある者の自殺を思い留まらす理由には成り得ない。価値観の問題なのだ。
「だとしたら」と俺は言った。「うちと似て、随分と、自由奔放な親父だな」
 生に飽きたから死ぬ。それを止めることはきっと出来ないけれど、しかし、それはあまりに無責任な行動ではないだろうかと思う。
 ミカの親父には家族を養う義務感はなかったのか。養う力があるのに、それを放棄するのは、あまりに無責任ではないか。
「ねぇー」とミカは笑った。
「でもね、大丈夫だったんだよ、意外に。父さん保険入っていたみたいで、私達が路頭に迷うこともなかったしね。ふと気づくと、お父さんがそこにいても、いなくても、私達は代わらず笑っていた。なくしたときの悲しみは本物だったのに、少し経てば、私はそんなもの忘れて、普通に生活してたの」
 言いながら、ミカは、絵本に火をつけた。「生まれてからずっと一緒にいた人が、突然いなくなったのに、可笑しいよね」
そして、赤く燃えて黒煙を漏らすそれを、思い切り、両手で、上空に放った。
 ばたばたと青空の中、音をたて赤く揺れるそれは、上空で一瞬動きを止めたかと思うと、すぐに下降していった。かつて絵本だった灰と煙はミカの後方、柵の向こう、屋上の床という地平線の元に姿を消した。焦げ臭さだけが、鼻に残った。
「私達はお父さんを愛していたよ、好きだったよ。でもね、いざ死んでしまっても、私達の生活に変化はなかった」
 なるほど、と思った。
 ミカの親父には居場所もあったし、それはおおよそ人が望む幸福であるのかも知れなかった。ただ、その幸福な世界は、またおおよその人の世界がそうであるように、親父を望んでいたわけではなく、ただそこにあっただけで、その時点で、それはつまり幸福ではなかった。
「つまり」と俺は言った。「怖かったのか」
 ミカは静かに瞳を閉じると、身体だけで世界を感じようとしているかのように、それはまるで瞑想のように、沈黙し、少しして口を開いた。
「私はやっとお父さんの気持ちを理解したの。大して苦労もなく生きていて、むしろ他人が羨むような生活をしていて、それでも心のどこか常に在った空虚感みたいなもの。高校まで、ううん、君に出会うまで、いつも感じていたそれは、生前のお父さんが常に抱いたものだったんだって」
 ミカはゆっくりとその瞳を開けて、俺をみた。
「助けて」と一言、ミカの表情から笑顔は消えていた。
 

 高校入学をしてまもなく、クラスメイトである一人の女子の違和感に気づいた。ミカと親しまれる女が周囲と笑っている姿を目にして、俺は覚ったのだ。こいつは俺に似ている。少し社会との折り合いが上手か下手かであるだけの差で、こいつは俺と、似ている。
 楽しそうに会話を交えて、女子たちと一緒に笑っているミカの振る舞いは見事で、その笑顔の裏に隠れる倦怠感のようなものは、きっと他の連中には覚れないものだっただろう。
 ほどなくして、俺達は会話を交えるようになり、お互いの冷めた部分を覚った。だから俺達の間に、作り物の表情も思考も、不要だった。
 もとより俺は他人に気を使って社交性を繕うようなタイプではなかったが、そういった振る舞いのあるミカにとっては、作りを必要としない俺との居心地は悪いものではなかったと思う。
 異性としてのそれかは定かではないが、いつしか俺はミカに好意を抱いていた。きっと、これは好意なのだ。
 だから、ミカは俺にとって、大切なのだ。


 そしてミカは、俺に救いを求めていた。
 だから俺はミカに、救いを与えたかった。
 大切な人の苦しむ姿ほど、苦痛なものはない。
 利害が一致しても、しかし叶わないことは多くある。
 始めてみる表情のないミカは、今更ながら、よく出来た市松人形を連想させた。学校のミス和風美人に選出されたその美貌は、ダテではないなと思った。
「この寂れた町と、小さな島国に、国境越えた国々に、太陽系に銀河系、宇宙丸まる」と俺は言った。「確かに、そんなものは俺達の世界じゃない」
 ミカは黙っている。黙って、虚無を思わせる漆黒の瞳で、表情なく俺を捕らえるばかりだ。俺はミカを救いたかった。
 しかし、決して俺はミカを救えない。きっとミカも分かっているのだろう。誰も彼女を救うことは出来ないし、救われるのも誤りなのだ。手の出しようのない場所で、ミカは悶えているのだから。自らと戦う者に、俺がどう介入できるだろうか。
 揺らしていた白い両足も、もう静止して、静かに浮いている。
「お前の世界は、カレーしか作れない美人な母親に、頭空っぽの女友達に、お前の進路に期待ばかりしている教師に、お前に下心ばかりみせる男子に、ちょっと気になるイケメン同級生の俺くらいなもんだ。テレビの向こうでしかみたことないような政治家が、不正騒ぎ起こして、地球の反対側で子供が餓死して、宇宙の果てで一つの惑星が消滅して、それがどうしたってな」
 気づくとミカは涙を流していた。大きな瞳を濡らして、雪のような頬に雫を落として、ただ無表情に。しかし、その揺れる瞳は、一心に俺だけを捕らえているのだった。涙は女の最強で最凶の武器だ、いつか親父が語っていた気がしたが、成程と思った。
「そうだよ」とミカは呟いた。
「私達にとっての世界なんて、目に映るものだけだよ」
 それはまるで独り言のようだった。
「でも、お父さんは世界を捨てたの。私は、お父さんにとっての世界だったはずなのに、私は選ばれなかったわけ。でも、当時子供だった私にとっても、お父さんは世界の大部分で、なのに、世界が大きく欠落したのに、でも」
 人の身体の七割ほどが水分であると聞いたことがある。
 それでも、このまま涙を流し続ければ脱水してしまうのではないかと本気で心配してしまうくらいに、ミカは頬を濡らしていた。
 ミカは、自らの父親への薄情と、父親にとっての自分の薄弱さを呪っていたのだ。
 ミカは静かに涙に流し、それは留まる気配がない。ミカは感情のみえない無機質な声色で、口を開いた。
「お父さんを世界に留めることも、出来なかったわけね、私は。お父さんがいなくなって戸惑うことも、出来なかったのよ、私は」
 思い出したかのようにミカは両手で顔を覆い、華奢な両肩を小刻みに揺らして、小さく嗚咽する。
 柵に腰をかけたままのミカは、酷く不安定で危うくて、俺は少々色々と焦っていた。
 そう。自ら命を絶つ、というのは自ら世界に属することを絶つ、ということだ。つまり親父はミカとの関係も、同じくして絶ったのだ。親父の家族への想いも、家族の親父への想いも、きっと多くの家庭がそうであるように、それは本物だったのだろう。
 ただ、多くの家庭がそうであるように、その想いは一人の人間の退屈を埋めるほどの力を持ってはいなかったのだ。
「ミカさ。それはきっと〝罪〟じゃないぞ」
 そう、それはきっと〝罪〟ではない。これを罪とするなら、きっと世の中には罪人しか存在しかいない。
「分かってるよ!」とミカは声を荒げた。柵が揺れた。
「人を想わないのも、人に想われないのも、罪じゃないかも知れないよ! でも、じゃあ、私は、どうすればいいのさ! 償う必要も、術もないのに、私の胸は苦しいんだよ! どうすればいいのよ」
 分からなかった。
 確実に俺が分かることは、ただ一つしかなかった。
 俺の世界は、しかしミカを失うことを許そうとしていない。俺の世界は、すでにミカにあった。
「俺はミカの宿題を写すことが出来なくなっても、お前と一緒に、お前のお袋のカレー食えなくなっても、死んでやる」
 ミカは、両手を力なく下ろして、その濡れた瞳を露にする。握っていたライターがこつりと落ちた。臭い自らの台詞に泣きたくなった。濡れた瞳の黒は、しかし、また懺悔の念がみえた。
「ミカは、世界を見捨てて、消えることは出来ないだろ」俺は笑った。うまく笑えていたかは、分からない。
 俺が、酷く残酷なことを言っていることは、分かっていた。
 昨夜の電話でのミカの第一声は、「今夜はなんか、怖いから少し相手してよ」と冗談めかした言葉だった。それから数時間、授業のことや同級生のことや教師について、他愛のない話ばかりを、普段のように交えていた。
 しかし今にして思えば「怖い」とは、ミカの心境を形容するのに実に正確な言葉だったのだ。
ミカは、脅えているのだ。
「分かってるよ」とミカの声を微かだった。
「私はまだここにいたいよ。私はまだ求められているから。私も求めるから。でも、お父さんは死んだよ、私はお父さんを繋ぎとめる世界になれなかったのに、私にはどういうわけか、私を望んでくれる世界があるんだよ。可笑しいと思わない? 不公平だよね」吐くように、ミカは続けた。
「私はどんな顔して、生きてゆけばいいのさ」
 ミカは、脅えているのだ。
 親父の世界にも成りきれず、しかし世界に恵まれてしまった自分に、脅えているのだ。
 ミカの抱える罪悪の意識は、俺の身の程には到底及ばない問題だ。
 だがしかし、これだけは言えるのだった。胸を張って言えるのだった。
 否、胸を張って、お願いできるのだった。お願いだから、胸を張れるのだった。
「死ぬべきでないことも分かっていて、でも生きることも忍びないなら、とりあえず笑っておいてくれないか」足の裏にコンクリの冷たさを覚えながら、俺はミカの少し前に立った。ミカの座る柵の下の地平線は小さくなって、青空は、広くなった。
「なにさ、それ」とミカは言った。
「お前にそう泣かれたら、俺は夜も眠れないから、だからとりあえず笑っておいて欲しいわけだ。その疲れそうな笑顔じゃなくてさ、いつもの、とびっきりに可愛くて、ナチュナルなやつをさ。それだけ。ただのお願い、だよ」
 面食らったようなミカの表情はまた可愛らしく、バックの青空によく映えた。
「自分勝手だよ」とミカは瞳を細くして、大きな雫がこぼれた。
 確かに、その通りなのだった。
 けれど、俺には、そうすることしか出来ないのだ。
 生きることに後ろめたさを覚え、死ぬことも誤りと理解している人間が涙を流すのは、あまりに不幸だ。それは見るに堪えない。
 だから、俺のために笑えと、俺は望むしかないのだ。
 そして、俺は走っていた。
 年季の入った柵だ、暫く負担をかけていたせいだろう。
 根元のコンクリごと抉れたそれは大きく後方に傾き、そこに腰かけていたミカと一緒に、地上へ落ちようとしていた。
 当てもなく伸ばした手は、ただ虚空に掴むばかりで、とてもミカに届きそうになかった。
 ミカは刹那驚きをみせたが、すぐにその表情は優しくなった。
 状況を把握して、そして、表情は柔らかくなった。
 生きることは楽しいから苦しくて、でも死ぬわけにもいかなくて、だけど事故なら、きっとお母さんも、高橋君も、許してくれる。私は、世界をやめよう。
 ミカはきっとそう思ったのだ。
 彼女は、苦しみから逃れるために、残された者の悲痛を犠牲に、世界を逃れようとしていた。
 間に合わない。
 俺は地面を蹴って、思い切り飛んでやった。
 ミカ目掛けて、飛んでやった。この体勢で、仮にミカに手が届いたとしても、体重に耐え切れず、二人一緒に落ちるのが関の山かも知れない。
 しかし、だから、それがどうした。
 ミカは再び、その瞳を大きくして驚きの表情をみせる。
 自分のために死すら覚悟する人間が、そんなに珍しいのだろうか。
 柵はまもなく、十数メートル下降の駐車場に落ちようとしていた。重力というやつは、なんて面倒なのだろう。だから俺は科学が嫌いなのだ。



 俺は祈った。
 なぁ。顔も知らぬ、ミカの親父さんよ。
 あんな美人な妻を持って、こんな可愛い娘を持って、それでも退屈だからと死んじまった自由奔放な親父さんよ。
 悪いが、かつて退屈の一部だったアンタの世界は、今では俺に退屈すらも居心地の良い存在にしてくれる、掛け替えのない世界なんだぜ。
 かつて、出来損ないの絵本の神が、とある市松人形の如く美貌を持つ少女の父が、きっと求めていたのだろう世界に、俺は今、望まれているんだ。
 あんたらになら分かるだろう。
 コイツが俺にとって、どれほど愛おしいか。
 親父さん、正直に言うよ。コイツとその母親を持ってして死んじまったアンタを、俺は非難していたよ。
 なんて無責任で自由奔放なクソ野郎だろうかってな。
 でも、気づいたぜ。
 もはや生すらも苦痛に思っているコイツを生かしたくて溜まらない俺も、十分、クソ野郎だ。
 いわば、あんたと俺も、似た者同士だよ。
 自分のためなら、他人のちょっとした悲痛なんて、考慮に入れないんだからな。
 でもよ、アンタの娘は、かつてアンタが望んだ世界に今いて、あんたのせいで、その世界を捨てようとしてるんだぜ。
 愛おしい世界を逃れる苦痛が、アンタにも分かるだろ。
 だからさ。頼む。
 願わくば、かつて愛した娘のために。かつて愛した妻のために。
 そして、彼女達の世界のために。
 願わくば。もう少しばかり、俺に素敵な世界を。



 世界を失うことと、命を失うことは、同義だから。


 
 気づくと俺は地面にうつ伏せになっていて、俺の指は細く白い誰かの足首を掴んでいた。全身に硬く冷たく横たわるコンクリの床とは反対に、妙に暖かく柔らかい雲のような肌だった。ミカはスカートをはためかせ、俺の頭の上に仁王立ちをしていたのだった。
 程なくして、鉄製の柵が眼下の駐車場に叩きつけられる音が、遠くで響いた。なんとも快い残響が、長く俺の鼓膜に木霊した。
 俺はすっかり忘れていたのだった。ミカは帰宅部のくせに、大会の度に陸上部から借りだされるほどの運動神経の持ち主なのだ。その気になれば、崩れた柵の上から脱出することくらい、容易なはずだった。
「忘れていたんだけど」とミカは言った。
 青空に上る太陽の光のせいで、影になったミカの表情はみえない。
「高橋くん最近さ、うちのお母さんのカレー食べにくるじゃない。そのせいで、お母さん最近、料理勉強しててね、今じゃ親子丼と肉じゃがも作れるようになったの。で、それを高橋くんに食べさせるってきかなくて、もう毎日耳にタコが出来るくらいなの」
「分かった、分かった」と俺は頬をコンクリに擦り付け、こちらを見下ろし、きっと微笑んでいるだろうミカを横目で見上げた。
 とびっきり可愛いくてナチュナルな笑顔が、俺には確かにみえた。
「まずは、それを食うために、生きて今晩、お邪魔するよ」
「そうだね、お母さん悲しませるわけにはいかないから」
「ところで、下着みえてるけど」という俺の言葉に、ミカは「みせてるんだよ」と応えた。
 なんとも清々しい気分だった。
 仮初の平和だった。けれど、これを仮初だというなら、世の中に平和など決してない。
 おおよその人間が知らずのうちに生んでいるだろうそれに、ミカは酷く敏感で、きっとこれから彼女は一生その十字架を背負って生きてゆくことになる。
 俺の好きな女の子は、これからも幸福を感じる度に、懺悔するのだろう。
 ならば俺も、一緒に懺悔してやろうと思った。
 女の子に一度も触れることも出来ず死んでいった童貞達に、飢饉のために餓死していった子供達に、愛国心のために特攻していった先人達に。
幸福で御免、と懺悔しよう。
 俺の世界は、透き通るかのように白い美脚と、可愛らしい白の下着と、雲ひとつない青空だけに満たされている。
 その美しい世界はしかし俺達を望んでいて、だから俺達は今日も生きていた。




あとがき
ただの説明で終わらないよう、出来る限り物語と連結した作りを意識し肉付けしましたが、シチュエーションを会話形式にしたため、やっぱり説明臭さは拭え切れなかったように思えます。確かに決して斬新な思想ではありません。それを出来る限り、自然に表現するかが勝負だとは思っているのですが、やはりシチュエーションが間違いでした。次は、もう少し考慮深く作品に取り込んでいこうと思います。

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